桐生の魅力を発掘、発信していきます
ー高崎経済大学 石井ゼミナールー
祇園祭の見届け人が語る
「お祭りの記憶」
1丁目元町会長 森さん
飲みのツケ払い!?昔のつきあい
昔は自分の名前が書かれたちょうちんを持って飲みに行くとツケが効いたんです。まずは町会の方で立て替えてもらい、最終的に個人に請求がくる流れだったので、お金がなくても飲めてしまうんですが、ついつい飲みすぎてしまい、後になって「払えない!」なんて人もいましたね。それで夜逃げがあったという話も聞いたことがあります。昔は今と違って、飲まないと仲間外れにされてしまうような世の中だったので、私もよく飲んでいました。飲めない人は「飲めない」と言わずに、上手な付き合い方を研究していたみたいですよ。
「30年ぶりに屋台を出そう」当時の切なる想いとは
1998年、1丁目が当番町のタイミングで屋台を30年ぶりに出すことにしました。その時は本町通りに出すのは難しかったので、通り沿いの駐車場に出しました。きっかけとしては「桐生八木節まつり」に名称が変更されたこともあり、祭りの中心が八木節になってきて、祇園祭が表に出てきにくくなっていたんです。八木節への流れが強まる中で、以前のように祇園祭を主とした内容にしたいという思いがあったので、私たちの番の時に屋台を出すことを決めました。1丁目が出すことで2丁目、3丁目も次に続いてほしいという思いもありましたね。
若衆としての心意気
私がお祭りに関わるようになったのは、大学卒業後社会人になってから2年ほど経って、桐生に戻ってきてからですね。幼少期は1丁目にこども神輿がなかったのでかかわりがなかったのですが、26歳頃から若衆としてお祭りに携わるようになりました。当時は1丁目の「北斗会」で若衆としてお神輿を担いでいました。また、私の頃は3日ほどでしたが、ひと昔前までは各丁の屋台で田舎芝居が1週間夜通し行われていたので、その期間は若衆が夜の当番をしたりしていました。若衆の仕事は大変でしたが、「やるもんだ」という感覚で色々な役割を担っていましたね。
祭りの総監督!頭の存在
自分が若衆をしていた頃は1丁目に頭がいましたが、その後は段々となり手がいなくなっていきました。昔は屋台の組み立てや会所の設営を頭の指揮の下で行っていたんですが、頭がいなくなってからは全て自分たちで行うようになりました。とにかくお祭りにとって頭は必要不可欠な存在だったんです。そんな中で、私が行司の時は見積もりを出されずに、祭りの後で頭から数百万円の請求がきたこともありました。それでも何とか支払いはできていたので資金に余裕はあったんだと思います。有無を言わせない頭への対応には、とても苦労した記憶がありますね(笑)。
【取材・文 森田 23/1 】