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町会の垣根を越えて新たな道へ!
変わる桐生と祇園祭

2丁目増子さん

2丁目町会長 増子さん

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元群馬県A級選手!テニス三昧の若い頃

出身は桐生であることは確かですが、小学校6年生までは住む場所を転々としていました。小学校6年生の頃から、父親が本町1丁目で花屋を営み始めました。私は市内の高校に進学した後、都内の大学に行きました。その時は実家の花屋(現「花のにしはら」)を継ぐ気はなく、スポーツ関係の仕事を都内でしようと考えていたんです。しかし、大学4年の頃に実家に戻ることになり、そこからずっと桐生に住んでいます。桐生に戻ってからは家業を手伝いながらテニスをしていました。というか、ほとんどテニスしかしていなかったですね(笑)。若い時はテニスの群馬県A級選手だったんですよ。それとずっと商工会議所の青年部にいたので、商工会議所の仕事とテニス関係の仕事ばかりという感じです。今でもお祭りに協力して頂いたりして、そのころ培った人間関係はとても役立っていますよ。

少しずつ前へ、変わる祇園祭

若衆になったのは、確か40歳近くになってからだったと思います。私が町会長になったのもなぜだかよくわからないのですが、たぶん商工会議所の繋がりで桐生の人たちと仲良くさせてもらっていた関係で、前町会長の田村さんに白羽の矢を立てられちゃったんだと思います(笑)。お祭りにかかわっていくうちに若い人たちが減ってきて、丁目ごとではなく町全体でやっていかなければお祭りの再建はできないと思い、4丁目の蓮さんたちと一緒に祇園祭保存会を立ち上げ、私は副会長になりました。現在は2代目の会長です。夏の暑さや若衆不足、資金面など、祇園祭にはこのまま続けていくのが難しいところがいくつもあります。保存会の中でも変えていこうという考えは一致していて、少しずつですが確実に前に進んでいると思います。

2丁目神輿担ぎ.JPG
2丁目宴会.jpg

飲むので忙しい!?祇園祭三日間でめぐる仲町

昔は今と違ってお祭りの役割がある程度終わると、みんなで仲町に行ってツケで飲んでました。で、最後にまた挨拶に行ってそこでお金を払う、ということをしていました。みんな帰るのは朝方ぐらいだった気がします。今じゃ考えられないくらいみんなで遅くまで飲んでたんですけど、それでも三日間の間にお店を全部周るのが大変で、お祭りの中でもそれが一番忙しかったですね(笑)。90年代ぐらいまではお祭りだけは無礼講、みたいな雰囲気があって、仲町はどこ行っても人がたくさんいました。仲町とお祭りはセットだったんですよね。でも急にそれが変わってきちゃって…。これも桐生の衰退と関係している気がします。

歴史的町並みと共に生きる

本町通りが重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)になったので、町の生きる道の方向性は見えてきたと思います。重伝建という形でこの町を残していけそうですので、これを若い人たちがどうやっていってくれるのか楽しみです。1丁目と2丁目の若い人たちは仲良くしてくれていて、町会ごとじゃなく1つの重伝建のグループとして何かやってくれそうな感じがあって期待しています。何かやるにしても町会内の連携はとても大切で、それを確かめるためにもお祭りはとても重要なものだと思います。やはりお祭りはなくしちゃいけないもので、なくさないためにも女性に参加してもらったり、やる時期をずらしたりとか、少しずつ形を変えていけばいいと私は思いますね。

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【取材・文 坂本 22/12 増子様・田村様より写真をご提供頂きました】

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