top of page

よそから桐生へ!
桐生祇園祭と屋台にかける想い

2丁目田村さん

元2丁目町会長 田村さん

田村様お写真.jpg

太田出身で町会長へ!

私は1939年に太田で生まれました。本当は学校の先生になりたかったのですが、高校卒業後郵便局で働き始めることになり、仕事の関係で桐生に来ました。やがて住まいを本町1丁目に設けることになりました。この町に住む以上、祇園祭とかかわって行くことは必須となりましたが、仕事の関係で祭りの付き合いは難しいところがありました。お祭りにとって付き合いは大事なものですが、やはり祭りとかかわりたいという想いから、まず1丁目の中老になりました。なので、実は1丁目のお祭りにも多少はかかわっているんです。そして、1992年に本町2丁目へ転居したため、2丁目の中老になり、2005年3月に退職したことを機に本格的に祇園祭にかかわり始め、後に町会長になり祭りとより深いかかわりを持って行くようになりました。

2丁目の目玉!屋台と人とのつながり

本町2丁目の祇園祭といえば屋台です。2丁目は、平成11、13、17、23、29年と2丁目が天王番の時には屋台を必ず出してきました。平成13年は天王番ではなかったんですけど、市制施行80周年ということで屋台を出しましたし、大幟も矢野さんの社屋の屋上から下げて披露し大々的なものでした。桐生祇園祭で天王番の時にこれだけ屋台を出しているのは2丁目だけではないでしょうか。これが実現できているのは、若衆からの強い要望があることと、それを実現する若衆の力のおかげです。若衆が頑張っているおかげで屋台を出すことができますし、人びとの結束にも繋がっています。今では、いろんな人からお祭りの時には2丁目の屋台が見たいと言われるほどです。

屋台の写真.JPG
正装の写真.jpg

勘違いからあわや大げんか?忘れられない事態に

忘れられない事態というのは、私が町会長を務めていた平成22年の祇園祭です。当時天王番だった本町1丁目に敬意を示すため、2丁目の町内頭と若衆が1丁目の若衆会所を訪れたところ、1丁目の若衆がちょうど誰もいなかったんです。挨拶に来たということを若衆に伝えてもらおうと町会会所に行ったところ、こちらが正装でいるもんですから、殴りこんできたのだと勘違いして怒られてしまいました(笑)。その後話をして誤解が解けて和解をしたので今では笑い話になりましたが、昔は少し気が荒いところがあったんじゃないでしょうか。今ではだいぶ落ち着いている感じですね。

これからの桐生祇園祭

私にとって祇園祭は夢中になれるものなんです。今はちょっと惰性で参加しているような感じになってしまっていますが(笑)。祇園祭の今の課題は、金銭面というよりも、人手不足と、温暖化による酷暑の中でお祭りを行っていけるのかということですね。つい最近は、外国人もお祭りに巻き込みました。今後、女性もお祭りに参加できないかと考えています。酷暑の中でのお祭りに関しては、お祭りを春か秋にという意見もあります。ですが、お祭りは夏にやるものというイメージがあったり、八木節まつりとの兼ね合いはどうするかなど、考えることがたくさんあります。今は、桐生祇園祭保存会においてそういったことを検討しているところです。

祇園祭の写真.JPG

【取材・文 13期小川 22/11 田村様より写真をご提供頂きました】

bottom of page